イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

Blacklivesmatterから考える、私と差別偏見との向き合い方

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日本にいるときは、遠く海外で起きた事件として認識していたblack lives matter.

Black peopleの友人がいたわけでもなく、差別を意識するわけでもなく、ああ、デモが起きたなとか、歴史の中の話としてとらえてきたblack lives matter。

でも今回の事件を受けて、非常に重大な問題として意識し始めている。

 

ジョージフロイドさんが亡くなったニュースを読んで、ああまた、と悲しく思っていたときは、まだ他人事だった。

BBCでデモの様子が報じられたときも、ああ大変だ、と、まだ他人事。

 

でも、私の住む施設のblackのお兄さんが、5月30日を境に

いなくなってしまったことをきっかけに、私の中で勝手に不安がふくらむ。

彼は3月以来、ずっと休まずに働いていた。

私は3月から毎日彼の顔を見ている。
ロックダウンが始まり、人との距離が取りにくいときも、彼は私の不安を察知して

無言ながらも気の利いた配慮をし、いつも私の心を癒してくれた。

彼は、私が注文した食事から、私の食べられない食材を把握している。

私が注文をする前に、私が食べられそうな惣菜を器に盛り始めている。

私がまちがって使った英単語をこっそり訂正してくれたり、ロックダウンが緩和すると世間話もするようになった。

でも5月30日から6月5日の今日まで、彼をみていない。

最初は「休暇でもとっているのかな」と思ったのだけれど、

あんなに皆勤で仕事をしていたのにこのタイミングでこれほどの長い休みを取るのは不自然。

もしかしたらロンドンにデモに参加しに行っているのかもしれない。

私の妄想が激しすぎるのかもしれないけれど、なじみのお兄さんがジョージフロイドさんの事件をどんな気持ちで受け止めたのか想像すると、なんともいたたまれない。

 

また、インスタグラムをみていて、ハッシュタグblacklivesmatterの数があまりにも多く、イギリスの有名企業・ブランドのサイトにもどんどん現れるblacklivesmatterに賛同する声の多さ、画面に次々と現れる真っ黒な画面に驚く。

 

イギリス人の友人は「今までblack peopleの友人が投稿していた内容についてそんなに触れてこなかったけれど、今回は違う」と、blackの友人の投稿を紹介している。

 

その内容は、 彼の祖先の歴史から始まり、アイデンティティ、交友関係、これまでblackであるがために受けた差別や居心地の悪さ、モカの肌色の友人に囲まれたときに感じる安堵、映画や美術館でblack people が全く登場しないときの違和感について触れていた。

それは私の知らない世界であり、知らない視点だった。

 

また、別の投稿ではこんな一文が。

 

If you are tired of hearing about racism, imagine how tired people are experiencing it.

 

 

人種差別の話にうんざりしたというなら想像してみなよ、それを経験した人たちがどんなに疲弊しているか。

 

グサッと突き刺さる。私なんて、「tired of hearing about racism」という感覚すらない。人種差別問題にほとんど目を向けることなく30年以上を過ごしてきた。

 

 

 

 

Youtube を観て知った話。

Black peopleは子どものとき、両親から「警察との対応の仕方」を教わるという。

警察に手を見せて、危険なものをなにも持っていないことを示すのだという。

私はこれにとても驚いた。

私にとって、警察は自分の身を守ってくれる存在であるのに、black peopleにとっては、自分に危害を加える可能性のある存在なのだということに驚いた。

これはあからさまな偏見ではないか?ともやもやする気持ちでいっぱいになる。

 

 

人種問題については、歴史的背景とか複雑なものがいろいろあって、私には到底推察できない部分も多々あることは承知の上。

でも、どうしてここまであからさまな差別が残ってしまい、命を失う事態にまでなっているんだろう。

国家間の比較をすべきではないと思うのだけれど、やはり私は、自分の生まれ育った日本と比較してしまう。

日本にも差別偏見はあるけれど、部落差別など似たようなものもあるわけだけれど、blacklivesmatter はそれとは別のことのように思えてしまう。

日本人は本音と建て前を大事にするから、差別もオブラートに包んで見えにくくなっているだけで、ときには人を死に至らしめるような差別がすぐ近くに、あるいは自分の中にもあるのかもしれないと思うと、非常に怖くなる。

 

私はこれまでも異常なくらい「差別偏見」というワードに執着してくよくよ悩みあれこれ考えてきた。

もちろん、社会で起きている差別的な問題や事件は非常に遺憾であり、それを黙認せずに声をあげていくことは、みんなが生きやすい世界を作っていく上で非常に大事。

でも、それ以前に、どうしたら自分の中に無意識にある差別的視点を排除できるのだろう、と、そこを中心に考えている。

解決策があるわけでもなく、でも毎回落ち込む私だけれど、今回はlanguage exchangerのEmilyにそれを伝えて、一緒に考えてもらった。

 

Emilyがくれた言葉が非常に印象的で、そこから少し気持ちが軽くなっている。

 

「差別偏見は国籍とか人種とか関係なく、常に存在するもの。

それを全部なくすことはできないけれど、個人が「ものの見方」を転換すれば、事態は少し落ち着くんじゃない?

 

差別や偏見て、相手と自分の異なる点、ネガティブな面に目を向けるから生まれるものでしょう。

そうではなく、相手と自分の同じ部分を、とくに、思考・考え方・感じ方の共通点を見出すことが大事なんじゃないかな」

 

この意見を聞いて思い出したことがある。

先日書いた通信制高校の記事で、卒業生が「どうしてみんな、ネガティブな方にばかり目を向けるのだろう?」と発言したこと。

 

 ※この記事です。

norevocationnoyo.hatenablog.com

 

 

私はいつも、マイノリティの立場にしっかりと目を向けていこうと意気込むけれど、最近は、そういう問題ではないのだと感じ始めている。

 

相手の国籍やマイノリティか否かとか、そういうことの問題ではなく、相手がどんな考え方や価値観を持っているのか、そこをたくさん話し合っていきたいなと改めて思った。

 

それで、かつてEmily とこんな話をしたことを思い出した。

 

私「どうやったら海外の子と友達になってうまくやっていけるの?」

Emily「…そんなの、海外もへったくれもないよ。あなたと私だって、普通に友達になった。そうでしょう?」

私「うーん、でも、私は英語で話すのが得意じゃないし、ゆっくり話すでしょう?深い話もできないし。language exchangeというシステムがなかったら、相手は私と話すとき退屈に思っちゃうんじゃないかな」

Emily「それは違うよ。あなたがどんなことを感じて、どんなことに興味を持っていて、どんな性格か。それが大切。そうでしょう?日本人は、気遣いすぎ!」

 

彼女は非常に素直な性格で、絶対にお世辞を言ったりしない。

自分の意見を気持ちいいほどガンガンと言ってくれる。

そんな彼女がポツリと

「少なくとも、私はあなたのこと素敵だと思うよ」と言ってくれた。

 

私のことを、日本人だからとか、日本語が喋れるから、とか、アニオタだからとか、そういう枠組みで見ずに、私そのものに向き合ってくれる彼女のことをものすごく愛しく思った。

 

私、肩ひじはって差別や偏見のことを考えすぎたな。

「その人そのもの」を愛する気持ちをなおざりにして形のことばかり考えていても、なにも変わらないよな。

 

最近はそんなことを考えている。

 

 

↓これまで、差別偏見マイノリティについて考えながら書いた記事はこちら

 

 

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