イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

イギリスで摂食障害の本を読む

 

 

 

※真面目な内容について、真剣に書きます。

医学的な知識も資格もなにもない私の一意見ですので、それをふまえてお読みください。

 

イギリスの図書館は、メンタルヘルスの役割も果たしているように思う。

 

定期的に送られてくる図書館からの案内メールには、鬱になったときに読む本、摂食障害に悩む人に読んでほしい本などが紹介されている。

 

私はいつか、この摂食障害の本を読んでみたいと密かに思っていた。

 

 

なぜ摂食障害?

 

私はかつての仕事(教育関連)で、摂食障害の子どもたちとかかわる機会が多かった。

女の子が多く、とてもかわいらしく、センスのいいものを身に着けて現代的、おしゃれの意識も高いのに、みんな自分に自信がない。

私は彼女たちのことが大好きだったので、なんとか病気を克服してほしい、と思った。

共感できることが多かったので、私は彼女たちへの思い入れが人一倍強かった。

 

摂食病気の克服は非常に難しく、医者やカウンセラーに相談・連携をとったり、いろんな本やネットの情報を探ってみたが、無力だった。

結局なにが正しかったのか、自分はどうしたらよかったのか見つからないまま退職をした。

近い将来、この残された課題に取り組みたいなと考えながら過ごしてきた。

 

 

また、私自身、体重の増減が激しい時期があり、自分の見た目で悩んだ。

2年前の私は今より6キロ太っていたし、15年前は今より12キロほど太っていた。

食べ物を食べることでストレスを発散する人の気持ち、食べ物のカロリーや体重の数値の変化に敏感な気持ちはとても共感できる。

そんな自分の特性をもとに、彼女たちの気持ちに共感しながら一緒に病気のことを学んでいけたら…と常に思っている。

 

なぜ「イギリスの」摂食障害?

 

日本でもいくつか摂食障害の本を読んだ。それは医学関連の書籍だったり、何人かの体験をつづった本だった。

読む前には覚悟を決めて読んだけれど、読後に非常に落ち込んだ。

克服に至らず長期間悩んでいる方が非常に多く、かれらのことを想像すると、なんともいたたまれない気分になる。

また、彼らはプライベートな部分をあまり多く書かない。

日本社会の特性でプライベートなこと(家庭環境、自分が感じる嫌なこと)を公にすることへの障壁が大きいとともに、病気の本人たちも、それが他者の摂食障害克服につながるヒントだとは思えないのかもしれない。

 

しかし一方、イギリスで私が見つけた摂食障害の本は、ヤングアダルト向け、つまり小学校高学年から読むことができるタイプのもの。

つまり英語で書かれているが読みやすい。

子どもでも理解できるよう、体験そのものを描いた作品なのではないかという期待があり、読んでみたいと思った。
また、欧米の方は自分の気持ちをポジティブに表現する傾向が強いので、日本の本よりも読みやすいのではないかと思った。

 

 

私が読んだ本

 

The Year I Didn't Eat

The Year I Didn't Eat

  • 作者:Pollen, Samuel
  • 発売日: 2019/03/01
  • メディア: ペーパーバック

 

イギリス人の筆者が実際に10代のときに体験した、自身の拒食症(anorexia)の1年を記録したもの。

自分が口にできた食べ物、気にしていたこと、家族や友達から言われた言葉に対する違和感、猜疑心、自分の体や心がコントロールできない葛藤などが細かく描かれていた。

 

主人公はアレックス。彼の拒食は、気づいたら始まっていた。

彼は常に食べ物のカロリーを計算してしまう。

アレックスの場合、自分の中にもう一人の人格の女の子がいて、その子が自分に「お前は太っている」とずっと脅迫してきたことをつづってる。

父も母もいい人たちで、不満はないのにこうなっていた、と語っている(しかし、実際の父は彼のことを腫れもの扱いし、問題の核心に迫ることをしないまま過ごしているし、母親は彼のことを気にし、理解しているそぶりを見せるものの、彼女自身も周りの目を非常に気にしている)。

 

彼の友達は拒食症というものを知らないので、アレックスが病気とは知らず、分け隔てなく付き合っている。

しかしアレックスは、彼らとランチを一緒にとることにプレッシャーがあったり、ランチ中に行われるお菓子の交換に対して非常に敏感になっている。

また、変わり者の女の子Evieとかかわるなかで、学校内のヒエラルキーに非常に敏感になっている。

自分自身も精神異常なのだ、などと差別的な言葉で自分の評価を下している。

 

アレックスは自身の拒食症と、それに伴う家族の不仲、友達との距離について悩みながらも、病院に通って病気を克服していく。

そして、退院したときには、医者が言うように、「病気を克服した摂食障害者は、普通の人以上に食べ物に対して固執しなくなる」という感覚を実感する。

 

著者は、私が期待するほど前向きな言葉やコメントを多用することなく、事実と自分の気持ちに素直に言葉を発していた。

中でも強調していたことは、「摂食障害の症状は個人でまったく異なる。これはあくまで自分自身の経験であり、それがすべてに当てはまるわけではない」ということ。

著者は、自分が少年時代に感じた気持ちを素直に書き表し、それを悔いたり恥じたりすることなくさらけ出してくれた。

 

私が思う、摂食障害の本質

 

日本で読んだ本、実際に会った大切な10代・20代の友人たち(過食・拒食歴あり)たちと話す中でも感じたことだが、摂食障害の問題というのは、十人十色。

彼らそれぞれ、世界の見え方が異なる。

今回のアレックスの話を読んで、改めて摂食障害は複雑な問題なのだと痛感した。

しかし、1つの本質に触れたような気がした。

 

私自身もそうなのだが、ダイエットや食べ物の話となると、私の価値観は非常にゆがんでいる。

例えば、食べ物そのものを「わ、おいしそう!」と素直に思えない。

「この食べ物はおよそ〇キロカロリーで、私は太りやすいから、これを食べたら明らかに太る。太ってしまってから体重をもとに戻すのは大変だから、この食べ物は絶対食べないようにしよう」と決めつけてしまう。

 

また、鏡を見ると自分が非常に太ってみにくく見える。

これは10代のころからそうだった。
兄弟やクラスの友達にからかわれて「デブ」「ブス」と言われると、人一倍傷つくし、本当に自分はそうなのだと思えて悲しくなる。

現在体重が落ち、BMIが17.5になったのだけれど、これでやっと「普通の体型」だと感じている。

あと3キロくらい落とした方がいいと思うこともあるが、それだと低血圧や生理不順の問題を抱えそうなので、そこは我慢している。

 

これらの価値観がゆがんでいることは、最近やっと理解できた。

でも、だれが何といっても、私は太っているし醜い。

そう信じてしまっている。

 

これはきっと、自分でマインドコントロールしてしまっているんだと思う。

摂食障害というのも、これと同じ原理なのだと思う。

自分を客観視できない。周りに見えている「自分」と、自分が感じる「自分」が、まったく別のものに見えてしまい、だれがなんと言っても信じられない状況。

この意識が、摂食障害に共通する本質であり、この意識を変えることが、治療の一歩なのだと感じる。

 

 

どうしたら克服できるのだろう

 

自分なりに、たくさんの人たちから学ばせてもらった。

摂食障害の方のブログを読ませてもらったり、摂食障害専門カウンセラーの方のブログや著書を参考にしたり、食べているものや体重の変化を見せてもらったり。

読む中で、私の意識を変えてくれたいくつかの方法を紹介する。

 

 

1.大切なのは体重の数値ではない、自分の意識

 

あるカウンセラーの方は、自分が過食をしていた頃の写真と、今の写真を並べてして掲載し、「体重は、どちらも同じ〇キロだけど、こんなに違う」と、常に強調する。

確かに彼女の表情はいまの方が明るく、体も引き締まって見える。なにより、幸せそう。

おそらく過食をしていたときは、嘔吐やチューイングといったことで自律神経が乱れて、顔が腫れたり体も不健康な太り方になってしまったのだろう。

今の自分が大好き、今が幸せ!と思えるように自分の意識を変えていくことの大切さを実感した。

 

2.すぐには止められないことを悟る

 

摂食障害を克服するのが難しいことはよく知っている。嘔吐やチューイング、胃の拡張などで体が変化するとともに自律神経も乱れ、満足感が麻痺するせいなのだと思う。

孤独を埋めるために食べたり、皿や袋を空にするまで食べて達成感を求めてしまう自分がいたり、口さみしいと食べ物のことで頭がいっぱいになってしまったり。

乱れている感覚を取り戻すには、時間がかかる。

あるとき訪問させてもらったアルコール依存症患者さんの施設で聞いた言葉が忘れられない。

「人間、一度夢中になったものを辞めるには、夢中になって止まらなくなった期間と同じだけの長い月日がかかる」。

何度も同じように拒食と過食を繰り返し、罪悪感にかられながら、体質と心のバランスの変化を理解していくことになるのだと思う。

 

3.視野を広げて、世界を見る

 

想像力を広げること、そして、世界のあらゆる価値観を知ることは、メンタルコーピングにおいて非常に大切だと感じている。

10代のころは、暗記ばかりの勉強が好きではなかった。

しかし、年を取るとともに経験と学びが結びつき、学ぶ楽しさが熟していった。

そうして、ずっとなにかを学び続けていたら、ある日突然なにかに納得して、心が少し軽くなったことがある。

どんなに頑張っても落ち込みやすいことや自分の性質はすぐには変えられないけれど、うまく対処する方法は身についてきたような感覚がある。

自分とはまったく異なる環境で、まったく別の問題に悩む人たち。
でも、実は自分と大きな共通点があり、問題の根本がつながっていることに、ある日突然気づく。

 

そんな「突然気づく」日を信じて、なにかを継続していたら、それは克服につながるのではないだろうか。