イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

イギリス流のやさしさと、そこから気づいたわたしの偏見

イギリスはジェントルマンの国だ、とか、そういう固定観念をさておき。

イギリスで、いろんな形のやさしさを垣間見た。

 

渡英直前、知人から「ヨーロッパで、アジア人は差別の目で見られることもある」と言われた。

しかしそんなことは数えるほどしかなかった。

それは、私が学術都市に住んでいるからかもしれない。教育・経済水準ともに高いこのイギリスの田舎町は、「異邦人」かつ「新入り」の私を温かく迎えてくれた。

 

でもそれだけじゃない。なにかが日本の「やさしさ」の形と大きく違うのだ。

 

人への「やさしさ」

 

私の通うキルト教室では、低出生体重児のために布団を作成して寄付するのが常だった。

リサイクルショップが町のあちこちに存在するのは、ガンや病気のためのチャリティーを目的としていた。運営はすべてボランティアがやっていた。

 

高齢者が多く、経済的時間的余裕があることも大きいが、みんなが当然のように自分の時間と労力を割いていた。

 

環境への「配慮」

 

オープンガーデンなどのチャリティーイベントも多い。

人だけでなく、自然や環境にも優しくあろうとする姿勢がみられる。

環境を守るためにベジタリアン、ビーガンを選択する人が多い。

家畜を育てるコストは環境に悪い。だから、肉の消費を控えている、のだそうだ。

 

「環境を考える週間」が始まると、多くの人がレストランでベジタリアン料理を選択する。

 

環境にやさしいマークが強調された洗剤がベストセラーとなっている。

虫にも優しい。殺虫効果のある防虫剤はあまり売られていない。

虫が嫌がるにおいを発する木材をタンスの中に入れて虫をよせつけないようにする。追い払うけど、殺しはしない。

桜の消毒に、殺虫剤は使わない。殺虫剤は虫だけでなく、周囲の芝生を食む牛や、散歩中の犬猫にも害を与えるからだ。

 

日本での私は、目の前の人へのやさしさ、お客様への配慮、おもてなし、にばかりこだわっていた。自分の居心地の良さのために殺虫剤を使うし、環境問題のことは気にせずに水や電気をどんどん使っていた。

でも、イギリスでは、自分の生活圏に関係のない人たちにも、動物にも、環境にも優しさが当たりまえのように存在することを知った。

 

ロンドンの、本当の「紳士」たち

 

ロンドンで受けた親切に、私は涙をこぼしたことがある。

 

あの日、私は40キロ近いスーツケースを持ち、ひとりで地下鉄の階段を登ろうとしていた。

この荷物は、お土産ではない。大事な本15冊と、おじいちゃんの形見の洋服。

 

でも、きっと誰もそんなふうに思わない。

ああ、あのアジア人は、きっとお土産を買いすぎて一人で運べないのだろう。
そう思われてもおかしくない。

 

しかし、荷物を抱えてふらふらと階段を登ろうとする私の隣には、いつもスーツのおじさんが現れた。
サラリーマンで忙しいであろう彼らは、無言で私の荷物運びに手を貸し、階段を登りきると、なにもなかったかのようにそのまま足早に去っていった。私の「ありがとう」の声が届いたのかもわからないうちに。

 

ロンドンの地下鉄は、段差が多い。

平らな道が20メートル続いたかと思うと、また階段があらわれる。

でも、階段があらわれるたびに親切な英国紳士が隣にいて、当たり前のように手伝い、平らな道になるとすたすたといなくなってしまった。

不思議な経験だった。

 

イギリスに住む私の姿は、はたから見たらみすぼらしいアジア人だ。

美しくもないし、経済的に豊かそうでもない。

ボロボロのトランクをさげている。

田舎町から出てきたので、安物の服を着て、よれよれで歩いている。

おぼつかないあやしい英語しか話せない。

でも、イギリスの人々は誰にでも親切だった。

重い荷物をさげた人がいたら、それがどこの国の人だろうが、どんな身なりであろうが無言で手伝う。

 

もしかしたら、私のスーツケースにはバクダンが入っていて、この駅に自爆テロを仕掛ける可能性がある。

違法な薬物をトランクいっぱいに入れて運んでいるのかもしれない。

転売品や海賊品を海外から仕入れてきた可能性だってある。

そんなことを邪推せずに、当たり前のように手伝ってくれる。

 

そんなやさしさにふれて、私は思う。

「ああ、自分が今まで「人にやさしく」とこころがけてきたことは、全部にせものだった」と。

私がこれまでに手を貸したのは、「重いものを運ぶのが大変そうな「高齢者」「妊婦」」。

「言語コミュニケーションに困っている「外国籍の人」「障がい者」」。

 

もしかしたら私は、私の中で勝手に「助けるべき人」のカテゴリーを作っていたのかもしれない。

「助けるべき人」にやさしさを押し付け、無意識のうちに相手からの「ありがとう」の言葉を期待していた。

だって私は、お土産をたくさん買って一人で運べない観光客がいても、荷物運びを手伝わない。

ちょっとあやしい見かけの人だったら、手伝ったりしない。

たとえ私が力持ちの成人男性だったとしても、手伝わない。

 

自分の生活に危害を加えそうな人たちとは一線を画し、知らんぷりをするくせに、自分の物語の中で「助けるべき人」を決めつける。

 

これは、自己防衛という点では間違っていないのかもしれない。

でも、だからといって、私が勝手に誰かを「社会的弱者」に決めつけていいのだろうか。

これは、私が生み出した偏見のひとつではないだろうか。

 

気付けば私も、偏見「される」側

 

渡英したことで、私は「マイノリティ」になっていた。

「外国籍」であること。それは言葉の壁やシステムの壁を持つこと。

言葉がうまく伝えられないので、相手からは不審がられる。

そして、税金の支払いや銀行の口座開設にあたっては、必要以上に疑いをかけられる。

社会からの恩恵が十分に受けられない不便さ、

自分の潜在的な資質を見つめてもらえないもどかしさ。

 

そんなものが滓のように重なっていたせいだろうか、
あのときのスーツケースは40キロ以上の重さに感じられ、

それを運ぶ自分はひどく醜く感じられた。

 

そんな私に偏見を持たずに接してくれた英国紳士たちから学んだものは大きい。

 

私の潜在的な「偏見」について、再考する時間を作らねばならない。

 

2019年11月 編集