イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

勝手にトリアージ

久しぶりに。

鬱々とした気分から、自力で戻ってこれるようになった。

そのときに考えていたことをここに記録しておきます。

 

私は子どもを持つことについて、ずっと悶々と考えていた。

出生前診断を受けることは、悪なのか。

初めて考えだしたときには、悲しくて泣きながら夜のケンブリッジをお散歩していた。

こんなの、大人の身勝手だ。

そんな気持ちと、別の気持ちがからまった。

「持病を抱える私の出産・育児は、人一倍負担が大きい。

事前に子どもの状況を知って、準備に時間をかけた方がいいのではないか」 

 

これまで、出生前診断は「産み分け」のために使われるものだとばかり思っていた。

でも、そうではなくて、危険を回避するために必要なものでもあるのだと気づいた。

でも、このとき、母体優先なのか、赤ちゃん優先なのか、という別の問題も生じて来る。

 

トリアージ。大事故や災害で多数の患者が出たときに、手当ての優先順をつけること。

フランスの「triage」、とりあーじゅ「選別」が語源だという。

 

命の重みのトリアージは、医療現場のものではない。

自分の心の中にも存在して、自分が決断しなければいけないこともある、と思い知る。

 

妊活をすることで、私にもトリアージをする可能性が高まる。

妊娠したら、この世に生まれてきていい人を、勝手に「選別」できる私がここにいる。

出産に問題が起これば、

自分の命か、赤ちゃんの命か、どちらかを優先するか選択しないといけない。

 

トリアージは、日常でも起きている。

 

94歳になる祖母と喧嘩をすれば、「こんなに面倒見てやってるのに、そんな言い方するなんて!もう知らない!そんなに被害妄想が激しいなら施設に行ってしまえばいいのに!」なんて平気で思う。
「この家に住んでいい人、いけない人」を勝手に「選別」するわたし。


悲しい事件をニュースで見ると、「加害者が死ねばよかったのに」と思ってしまう自分。

 

トリアージせざるを得ない緊急事態とは違う。

自分が置かれた様々な状況下で、無意識のうちに勝手に命の重みを判断している自分がいて、それを不思議に思わない。思ったとしても、あとで言い訳を考えて、自分の汚い心を覆い隠してしまう。

 

生きれば生きるほどどんどん傲慢になっていく。

いろんな枠にどんどん自分の「当然」を押し込んで、矛盾を見て見ぬふりしている。

 

そんな自分が嫌なんだな、だから子どもを産んで育てる自信がないんだな。

そんなことが最近やっとわかってきた。

                                                    

考えるのには時間がかかるし、時間に追われた生活の中では見えてこない。

わかったところで、自分の特性なんてすぐには変えられない。

それでも、物事は進めていかないと間に合わないこともあるわけで。

自分はこういうやつなんだと決めつけて、自分が変われるまで子どもは早いと

決めつけて悶々としているわけにもいかず。

 

心に余裕を、前向きで柔軟な心を常に持てたらいいのに、ここ数日沈んだまま起き上がれずにいて、でもやらなきゃいけないことは少しずつ見えてきて。

問題は解決していないけれど、とにかくやらなきゃという気持ちで前を見ている。
やっと浮上してきたような気分。

 

なにも解決してないんだけど、ね。