村上春樹『騎士団長殺し』を読んで
気付けば、村上春樹の『騎士団長殺し』が発売されて2年が経っていた。
- 作者:村上 春樹
- 発売日: 2017/02/24
- メディア: 単行本
やっと、やっと読む機会を得たものの、読み切るまでに1か月を要した。
年を取ったせいだろうか。ひとつひとつの描写、メタファーについて思いを馳せ、自身の経験と照らし合わせていたら、ものすごい時間と労力がかかってしまった。
しかし、読むのに時間がかかったのは、私だけの問題ではない。
春樹の描写の仕方も大きく変わったように感じる。
今回、読了してまだ1日しか経っていない新鮮な、率直な今の気持ちを書き残しておく。
描写の変化1.写実的になった
今回は絵画の話ということもあり、ひとつひとつの描写がとても細かかった。着ている服、家の空気、絵画の細部…そして、春樹特有の直喩がほとんどなく、写実的な印象をもたらした。映像を観ているような、自分も騎士団長とともに部屋の隅から主人公を見つめているような気持ちになった。
描写の変化2.登場人物に生々しさが添えられた
かつての村上春樹の作品では、主人公が自分のことを理解できていなかった。
自分の行動や感情への気配りに「無関心」で、他力本願なイメージ。喜怒哀楽をはっきりと表すことができず、水先案内人に黙って従うことで物事を進めていくことが多かった。
最終地点で涙を流しカタルシスに達したり、怒りを感じたり、自分がなにをすべきか感たり、痛みや苦しみを感じられるようになっていった。
これまでの登場人物のぼんやりとした輪郭は、親近感があり、しかしなんとも幻想的な世界を身にまとっている印象だった。
しかし、今回の主人公は人間くささがあった。他者からの評価・評判を「嬉しい」とは表現しないものの「悪い気はしない」と語り、人から見られる行為に対する居心地の悪さを表し、したいこと、したくないことが具体的に描かれていたように思う。
例えば食べたものをひとつひとつ書き並べ、食欲や枯渇を表現した。
また、これまでの作品では、大切な女性が姿を消しても喪失感を吐露していなかったのと対照的に、女性との過去を丁寧に振り返り、女性の輪郭を浮かび上がらせ、自身の心に引っかかるもの(妹との関係、自身の仕事のやり方など)を紡ぎだしている。
『ノルウェイの森』までの村上作品の主人公が「デタッチメント」のメタファーであり、それ以降の作品の主人公は、少しずつ主体性を持とうともがいている。私はこれまで、ずっとそう信じてきた。そして、『騎士団長殺し』の主人公は、暗闇の中を手探りで「コミットメント」にむかおうとする姿勢がますます高まっているように感じる。
作品の評価と、私の感想
作品を読み終わるまで、レビューや評論は読まないようにしている。
『海辺のカフカ』以降、春樹の新作が登場したときのお祭り騒ぎが加速しているように感じる。その内容は文学作品の内容ではなく、春樹がノーベル賞を受賞するかどうか、春樹の歴史観を問うもの、春樹の作品の表面的な文体を揶揄し「やはり春樹はなにも変わらない」「がっかりした」と騒ぎ立てるものが多く、私は不愉快だ。
文学とは、芸術とは。こんなに作家本人や歴史観と結び付けて議論されるものなのだろうか。
「これまでの作品となんら変わらない。がっかりした」「やはり春樹はサヨク的な歴史観を持ち、それは薄っぺらい言葉でしか表現されない」。そんな評価を目の当たりにするたびに、世論の、マスコミの衰退を痛感する。そして、それは読み手の想像力を衰退させることにもつながる。
文学と歴史観
本来文学というのは、メタファーの世界であり、アンダーグラウンドの世界だと思う。
正義も悪も順序立ても、歴史的背景、設定も、すべてが著者の選択によって成り立っている。
作品の世界観は、作家の価値観から一度切り離し、主人公の世界のものとして表現される。
しかし春樹の作品は、春樹本人と主人公がリンクしているようにとらえられがちである。
『騎士団長殺し』は、世界中に待望された。そして、中国の人たちも『騎士団長殺し』を読んだ。そして中国人は、春樹が記した「南京大虐殺」で亡くなった人の数に反応した(日本人には「南京大虐殺はなかった」と主張する人もいる中、春樹の作品では、「犠牲者は〇人だったという人もいれば、40万人という人もいる」と語られている)。
これに対し、日本の論者は、マスコミは、春樹の歴史観をバッシングした。「こういう春樹のあいまいな表現が、中国の歴史認識を刺激する」とし、「そのくせ作品の中で具体的な歴史についてはほとんど触れていない」「無責任だ」とした。
おかしな評論だな、と思った。それとともに、いや、評論にすらなっていないな、と思った。
文学も絵画も、表現されたものを読み手がどう感じるかは自由である。
しかし、ここでの議論は春樹の表現に深く言及していない。もし批判するのであるならば、「どうして春樹は、このような曖昧な表現で歴史を語ったのか」について言及するべきだ。
そして、「あいまいだ」「無責任だ」と言われながらも、春樹がどうしてこのような表現を続けているかについて、考えるべきだ。
個人的には、春樹の歴史観の書き方をとても誠実だと感じる。
私自身、教育現場で歴史観を生徒に伝えることはとても難しいことだと感じ、責任を伴うことを実感した。
どんな資料を用意し、多角的な観点で語るか。どんな場所へ行き、だれから生の声を聞くか。そして気づいたのは、私自身が語れることがほとんどないということだった。
教科書の「〇年に〇〇戦争があった」という一文は、全体主義のものであり、なんの根拠もない。東北の大震災は、あとから東日本大震災と名づけられたわけで、被災した人はそんな名前や被災者の数など関係ない。そこで痛みを感じた一人の人、というのが、まぎれもない事実である。残された私たちは、その一つ一つの痛みにじかに触れたり、記録を読んだりして痛みを想像することしかできない。
春樹の「犠牲者が〇人だったという人もいれば40万人という人もいる」という言葉も、表面的には無責任。しかし、語り手である春樹は、読み手の私たちは、個人の痛みを想像することができる。想像力を仕組むのが作家の仕事で、想像することが読み手の役割。
注目するのは、犠牲者の数ではない。その事件に立ち会った一人の人間の痛みと、そこから派生する痛みや苦しみ、悲しみに思いを巡らせないといけない。
もし仮に40万人の人が犠牲になったとしたら。1人1人の痛みとともに、それらの家族、友人、社会への大きな苦しみが何年何十年と連なっている。春樹は、そういうことを語りたくて40万人という数字を持ち出しているのではないだろうか。あくまで私の推察なのだけれど。
「点」で読まずに、「線」で読んでほしい
春樹の作品は、読み手によって好き嫌いが大きく分かれる。簡潔でファッショナブルな文体とはうらはらに、メタファーが多く用いられ、ファンタジーのような世界観に人の痛みや歴史や現代世界がちりばめられて、読み手を混乱させるためだと思う。
しかし、その表面上の「わかりにくさ」に戸惑って、むやみやたらに「ハルキが嫌いだ」となり、春樹ファンを「ハルキスト」というくくりで縛り付けてバッシングしたり、春樹本人の評価をノーベル賞や作家としての成長という枠組みではかったりしないでほしい。
近年、私たちは物事を表面的に評価することに慣れてしまったように思う。
人からの評価や人気を参考にして物事を判断することが多くなり、腰を据えて本質を見つめる時間を作らなくなってきている。
本質を見つめる人がいなくなったら、文学界は表面的な人気や需要を求めるものであふれ、未来の子どもたちは、私たちは素晴らしい作品に出会う機会を逃すことになる。
どうか、物事を「点」ではなく、「線」としてとらえてほしい。
春樹が今までなにを語ってきたか。その延長線上に、さらになにを書き足し、塗りなおし、あるいは更新しているのか、それを読もうとしてから、批評をしてほしい。