イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

時代とともに変わる絵本と、読み手の危機

私には甥っ子がいる。

結婚するまで実家暮らしだった私は、甥っ子との時間が大好きだった。

甥っ子たちは兄夫婦とともに、月に1回遊びに来た。

一緒に工作をしたり、すいかをくりぬいてフルーツポンチを作ったり、クッキーを焼いたり。

私もたのしかった。小学生や幼稚園児と遊ぶ時間があることが、とてもうれしかった。

だからといって子どもが好きというわけではない。

自分の子どもができたとしても、どのくらい子どもを愛せるのかも分からない。

潔癖ではないけれど、よだれべっとりの手で公共の遊具を触る子どもたちを汚いと思ってしまう。

子どもの母親が衛生面に無頓着だと、子どもに触れるのを躊躇してしまう。

 

でも、甥っ子は、違う。甥っ子のことは、かわいいと思ってしまう。

小さい頃から見てきたからだろうか。鼻くそをほじりながら私の携帯でゲームをしても、私が大事にしているぬいぐるみの縫い目をほつれさせてしまっても、わがままを言ったりさわいでいても、それでもいい。

それすら、かわいい。

それに甥っ子たちは、大人とは違う優先順位や価値観を持っている。

一緒にいるとたくさんのことを教えてもらえる。

そんな甥っ子と絵本コーナーに行って気づいたことがある。

 

小学2年生の甥っ子と、中心街の大きな書店に行った。ショッピングモールの中にある書店。まず、本屋がゲームセンターの横に立地していることに驚いた。うるさい。

そして、最近の絵本を見て、これにも驚いた。

淡い色の優しい質感の絵本ばかりが平積みにされている。

たとえば、『スーホの白い馬』という話がある。

私は、あの土気色の肌、細い目、民族衣装を着た青年スーホの挿絵を思い出す。モンゴルの平原は明らかに日本と違う乾燥した地域で、住む家も、テントのようだった。

そして、走る白い馬が矢に撃たれ、血を流している描写は見るにたえなかった。

でも、今改訂された『スーフの白い馬』は、雰囲気が違う。

絵も、日本特有のやわらかいタッチだった(有名な絵本作家の絵だった)。

傷ついた馬の絵はカットされていた。

小さな子どものために読みやすく親しみやすく改訂したのかもしれない。

 

私は、昔自分が読んだ挿絵の本が書店でまったく見当たらないことに驚いた。
私が読んだのと同じ絵本を探しているのに。

私が共有したいのは、同じ挿絵の本。甥っ子と共有したいのに、ない。

ほかにも、私のお気に入りの絵本たちが書店になかった。

…ぎょろっとした目の動物が少しこわい、『いないいないばあ』は、幼少期の兄と私のお気に入りの本。

あたえゆうきさんの描く切り絵が印象的な『もちもちの木』。この本は、夜の怖さ、だいすきなおじいちゃんが苦しむことの不安をリアルに描いていた。

おばあさんにぽかっと殴られて、「団子」という言葉を思い出す『だんごどっこいしょ』は、川を飛び越えたり、こぶを作ったのに笑顔の「ぐつ」が不思議で愉快だった。私の人生でベスト5を争う面白い絵本たちが、この大型書店に1冊もなかった。

もしかしたら、書店の選書係の嗜好が影響しているのかもしれない。

もしかしたら、私の好きな絵本も人気はあるけれど、売れる絵本はやわらかな現代的なタッチだから、書店に置いていないのかもしれない。

そう自分に言い聞かせて、私もひとまず絵本を手に取って何冊か読んでみる。

うーん、インパクトに欠ける。絵本の舞台は夢のような淡い色のカラフルな世界。

物語の展開はどれも似たようなものばかり。絵がかわいいのだけが印象的。

家に帰ると、どんな話だったかすっかり忘れてしまった。確か、動物がお店屋さんを開いていて、楽しくワイワイやっている内容だった気がする。動物も、猫やペンギンや、私たちに親しみのあるかわいい動物ばかり。

世界に飛んで行って、インダス川で泳いだり、サファリに行ったり、塔のてっぺんにぶら下がったり、自分が経験したことのない世界や、昔の世界を見れたら楽しいのに。

突拍子のないことをしてくれるから絵本て楽しいのに。

 

甥っ子を見ると、シリーズものの人気絵本に夢中になっていた。

学校ではやっているのだろうか。

 

この子と、新しい発見がしたい。

そう感じた私は絵本をあさりまくった。

そしてやっと、異質な異質な絵本を掘り出すことに成功した。

野菜が大阪弁をしゃべる絵本だった。

挿絵もダイナミックで、ちょっと「おどろおどろしい」。

ビビットカラーの荒いタッチ、私の好み。

大阪弁を声に出してみると、すごく気持ちよかった。

甥っ子がのぞきこんできたので、一緒に読む。

「この野菜たちよくしゃべるね。ふふふ」なんて言いながら小さな声で、でもノリノリで読んでいたら、3歳くらいの子どもたちが寄ってきた。

恥ずかしくなったので途中で本を閉じたけれど、そのときふと気づいた。

子どもたちは、絵本の物語を誰かと共有しているのだろうか?

もちろん、司書の先生や学校の先生が頑張ってくれているのは知っている。

そうではなくて、身近な人たちと。友達、兄弟、親戚、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんと共有しているのだろうか?

30年前は、兄弟やいとこが近所にいて、おさがりやら近所の家に転がっている本やらを手あたり次第見る家庭が多かった。ページが破けていたり、シミがあったり、シールが貼られて落書きがベタベタの絵本も多かった。じじばばが昔話をしてくれたり、公民館の古い絵本をそっと引っ張り出したりもした。

 

今は違う。

ピカピカで、改訂されて現代的な絵本が子どもひとりひとりのためにたくさん用意されている。

おもちゃもたくさんあるから、絵本がなくてもとくに不自由も感じないのだろう。

 

でも、親や祖父母が知っている物語を共有したり、兄弟親戚で同じ絵本を共有する時間がないなんて、私には信じられない。

 

親や兄が面白いと教えてくれた絵本や児童文学の表紙は、陰気で怪しくて、ちょっと開くのが怖かった。

でも、知らない価値観や違和感、新しい世界が突然現れて、今でも忘れられなくなっている。

 

とびうおのぼうやが突然病気になり、お母さんが必死でお医者さんを探す絵本『とびうおの赤ちゃんは病気です』は、第五福竜丸の悲劇の話だった。

『おこり地蔵』は怒った地蔵の挿絵が怖くて一人では読めなかったけれど、あとで原爆の話だと知った。優しい顔のお地蔵さんが原爆の影響を受けて、怒った顔に変形してしまったのだ。

なんというタイトルだったか忘れたけれど、戦時中に親と離れてしまった女の子が、中国のおじさんにマントウという食べ物をもらってほおばるシーンがあった。

マントウとはなんだろう、あの子、おいしそうに食べていたな、とずっと気になっていたのだけれど、大きくなるにつれ、「そもそも、あの女の子はどうして中国で迷子になったのだろう」という疑問に変わった。

そういうすべてが、今の私の興味関心につながっている。

まだまだ怖くて、全部自分ひとりで調べたり確認できていないことが多いけれど、ずっと心のどこかにひっかかっている。

今の子どもたちは、そんな「ひっかかる」絵本に出会っているのだろうか。

 

もし私がおかあさんになったら。

きっと私はずぼらなお母さんだから、子どもと一緒に絵本を読むことは少ないかもしれない。でも、ちょっとだけ一緒に読む。そして、「あとは自分で読んでごらん」って渡すんだろうな。私に似て頑固な子だったら、拒否して絵本をぶん投げるかもしれない。

私の子どもが、「私の読んだ絵本」をどんなふうにとらえて、心のどこにしまってくれるのか、あるいは、ぶん投げて拒否してくれるのか。そんなことを考えていたら、「子どもを産む不安」は頭から消えているので不思議。