イギリスでも、黙っていられません

海外駐在妻の、世界へ向けたひとりごと

断捨離とエコ

 

祖父母は店を営んでいた。彼らは自活できなくなる80代後半までその店を開き、店に連なる自宅で寝起きしていた。

町の中にあるこの家はとても狭く、築40年で階段が急。お年寄りに優しくないうえ、隣の家とぴったりくっついて建てられているので、建て直しができない。

さらに困ったことに、祖父母は片づけや整理が苦手で、たくさんのものをしまい込んでしまった。

商品の在庫、祖母が漬けた漬物、よく考えずに買い込んだ大量の衣類、屋上で家庭菜園をするために買った土や植木鉢。

 

極めつけは、大量の食器類。

 

燃えるゴミや古紙のように手軽に捨てられるものではないので処分に困っていたのだが、母がとあるイベントを見つけて、そこに持ち込むことになった。

 

それは、私の故郷で開かれる陶器市。

使わなくなった陶器をきれいに洗って持ち込むと、引き取ってくれるという。

ボランティアの方が陶器1つ1つを糸底まで丁寧にチェックする。欠けていたり汚れがひどいものは引き取ってもらえない。

引き取られた陶器はイベント会場に並べられ、欲しい人が持ち帰る。

余ってしまった陶器は窯元が引き取り、粉砕して新しい陶器を作るために使ってくれるという。

 

祖父母が持っている大量の食器は、どうやら昔の結婚式の引き出物らしい。

10枚セットの皿。

大きなどんぶりは有名なブランドのもの。

30代の私が見ても「素敵」と思えるものがそろっている。

 

でも今は時代が違う。

たくさんお客を呼んで手料理をふるまうことがほとんどないので、お皿は10枚もいらないし、大皿やどんぶりの活躍の機会は少ない。

本当は私たち孫が受け継いで使えたらいいのだけれど、私も兄弟も狭い借り家暮らし。

たくさんの食器を保管することはできない。

そこで、本当にたくさんの食器を手ばなすことになった。

 

長いこと空き家になっていた祖父母の家から持ち出した食器。

洗い方が雑なまましまってあった食器は汚れがひどく、持ち帰って家で漂白剤をはったたらいに浸けおき、そのあと特殊なスポンジで油をこそげ落とし、洗剤でしっかり洗った。

 

これらの食器の中には、懐かしいものもたくさんあった。

大晦日にブリの塩焼きを載せた魚皿。
お盆の煮物をたっぷり盛りつけた大きな器。
私から祖父母へ沖縄土産のやちむんの湯飲み。

祖父がいつも淹れてくれたコーヒーを飲んだカップ。 

 

これらの食器を使ってみんなで食卓を囲んだ思い出がこみあげてくる。

使っていた人の顔や食べた料理の味、商店街のせわしない年末の雰囲気と正月のお飾り、いろんな記憶がよみがえってくる。

 

たくさんの食器を廃棄することは、「もったいない」ことに違いない。

老い支度を怠った祖父母のせいで、「ものを捨てる」罪悪感が増して気分もよくない。

でも、この食器が10年20年と食卓で活躍していたことを考えると、これから窯元で土にかえり新しい陶器に生まれ変わることを考えると、「よかった」「ありがとう」という気持ちの方が強かった。

リサイクルの時代になり、物を捨てることへの罪悪感がさらに強まっている昨今、こういう幸せな捨て方もあるんだなとかみしめるきっかけになった。

 

「捨てる」と表現したけれど、断捨離の「離」は、ものから離れる、思い出から離れることを意味するのだそう。

なかなか捨てられないものはいったん保管しておいて、気持ちが落ち着いたら手ばなすのがいいという。

 

今回は祖父母の食器だったから、比較的穏やかに食器とお別れできた。
でも、そこにもたくさんの思い出があった。

 

もしこれが両親の食器だったらどうだろう。

もし、将来私が年老いて、子どもたちの昔使った茶碗を捨てる時がきたら。

うまくお別れができるだろうか。

 

近い存在の人とのお別れはつらいし、その人たちの思い出に関するものとのお別れもつらい。

でも、適切なタイミングで断捨離をしないと、私の大切な記憶が誰かにごみとして扱われてしまう。

ゴミを増やさないようむやみに買わないように心がけているけれど、いい思い出と記憶を紡ぐことができそうなものには確実に出会い、手に入れ、笑ってお別れができる人生でありたい。