イギリスの教会で、クリスチャンマインドを学ぶ 1
※登場人物は仮名です。
エマとは、クリスチャンユニオンの主催するカフェで出会った。
カフェといっても、常に営業している「お店」としてのカフェではない。
毎週金曜日の17時から19時までのイベント。
教会に併設されたカフェを、この時間だけクリスチャンユニオンのボランティアの学生たちが使用する。
英語を学びたい人ならだれでも参加できる。
語学学校の生徒や、私のような駐在妻、働きながら英語を勉強している人たちが毎週何十人もあつまる。
コーヒーと紅茶、ビスケットは無料、ときどきワッフルやチョコレートフォンデュがふるまわれることもある。
最初にこのイベントに参加したときに、私はとても驚いた。
名門ケンブリッジ大学の学生が、私のようなおばさんに時間を割いて、英語でのおしゃべりに付き合ってくれるなんて。
英語が得意でない私たちが出すトピックは、稚拙になりがちだ。
自国の文化の話にしても、食べ物のことだったり、サブカルチャーのことだったり。
質問内容も、広がりのないテーマが多くなってしまう。
それでも、毎週彼らは時間を作ってくれた。そして、面白いトピックを持ち出して、私たちの英語学習と興味関心の幅を広げてくれた。
希望者がいれば、イベントの後に一緒にご飯を食べに出かけることもある。
彼らの狙いはなんだろう?
クリスチャンユニオンだから、キリスト教に勧誘したいのだろうか?と疑ったこともある。
実際、このイベントの後半に、希望者だけで「バイブルスタディ」が開かれている。
これは、30分ほどの時間、みんなで聖書の一節を読み、感想をみんなでシェアする時間だ。
参加しない人は、そのままカフェでのおしゃべりに興じる。
私は何度かバイブルスタディに参加したが、勧誘はまったくなかった。
彼らは純粋に、「キリスト教が少しでも人々の心に寄り添うきっかけを作りたい」と考えている様子だった。
私は、この考え方をとても気に入ったし、彼らの気持ちを、クリスチャンマインドを学んでみたいと思った。
そう思うようになったのは、自然なことだった。
私が心から信頼できる友人のうち、3人は敬虔なクリスチャンだ。
彼らにはそれぞれ別の時期、別の場所で出会った。
19歳のときに大学で出会ったあゆみ、旅行先で出会った韓国人のジェファン、職場で出会った先輩の、まことくん。
彼らの「やさしさ」は、心に染み込むような温かさがあった。
彼らと話をするなかで、彼らのやさしさがクリスチャンマインドからきていることを感じた。
彼らは、持っているものや技術、時間を惜しみなく私に分けてくれた。
困っているといつでも親身になって寄り添ってくれた。
自分がどんなに苦しい状況のときも。
そして、見返りを求めない。
さらに、とても謙虚だった。
あるとき、ジェファンに聞いてみた。
「あなたを尊敬する。すごいと思う。これまでどんな教育を受けてきたの?」
ジェファンは言った。
「神様が喜ぶことはなんだろう?って考えて、行動しているだけだよ。
これは自然なことなんだよ」と。
彼らのやさしさの根源に触れるため、私はバイブルスタディに参加した。
しかし、これは私には難しかった。
聖書の一節をみんなで読み、主催者が質問を投げかける。
「このとき、イエスはどんな気持ちだったと思う?」
「人々はなにを期待していたと思う?」
「イエスのこの言葉にはどんな意味が込められていると思う?」
私は頭を抱えた。わからない。
私はかつてプロテスタント系の大学で学んだ。
そして、聖書やキリスト教の本を読んだことがあるので、どんな答えが期待されているのか、ぼんやりわかるときもあった。
でも、その答えを模範解答のように言うことができなかった。
私には、イエスの起こす「ミラクル(奇跡)」を心から信じることができないから。
心のどこかで、キリスト教を受け入れられない自分がいた。
この気持ちは、私の言動にもつながった。
ある日、「イエスと同じ意味で使われている呼ばれ方は?」という質問がされた。
「メサイア(救世主)」が答えだというのは、なんとなくわかっていた。
でも、それが言えなかった。
あのとき、私はなにかに落ち込んでいて、機嫌が悪かった。
そして、虫の居所の悪い私は、「どうしてそんな質問に答えなければいけないの?」と思ってしまった。
こんな質問は茶番だと思った。
イエスはメサイア。救世主。私たちの罪を背負ってくれる存在。
そんなこと、バイブルスタディで確認する必要はない。キリスト教の人たちにとっては当たり前の話なのに、どうして質問し、私たちに答えさせるのだろう?
私たちをキリスト教に入信させるための、暗示みたいで気味が悪い。
そんな違和感が頭から離れず、私はただ、こう答えた。「わかりません。私はクリスチャンじゃないから。」
バイブルスタディに居たメンバーは15人くらいだと思う。
みんなきょとんとしていたが、すぐに話は進んでいった。
そして、私の悪循環も進む。
私は今回の聖書の一節を、まったく理解できなかった。
ネイティブの学生デイビットが一生懸命何度も解説してくれたけれど、まったく意味がわからなかった。
それは、私の英語能力も一因だけれど、閉ざしてしまった心の影響が大きい。
私は落ち込んだり心を閉ざすと、相手の言葉を聞こうとしなくなる。
理解したいけれど、どんよりと落ち込んだ気持ちでは前向きにとらえることができない。
そして、自分の語学力では、この節の理解は難しい。
そんな気持ちによって、相手の言葉の意味が素直に受け入れられなくなってしまった。
まったく理解できない私を目の前にしても、デイビットはイライラする様子も見せず、何度も丁寧に説明してくれた。
でも私の頭は限界に達した。
私は、デイビットに謝った。
「ごめんね。理解できなくて。自分で勉強してみるよ」
デイビットはにこっとして、
「気にしないで。手伝えることがあったらなにか言って」と答えた。
バイブルスタディが終わると、一人の中国人が私のそばにやってきて、ある画像を見せた。
「ほら、ダライ・ラマだよ。仏教の人だろう?ダライ・ラマと、ローマ教皇が仲良く握手している。ね?お互い理解しあっているんだ。君もかたくなにならずに、もっとキリスト教を受け入れてごらんよ。僕も、この考え方を受け入れたら楽になったんだ。」
こういわれたとき、私は本当にがっかりした。
ああ、私の態度は、キリスト教を拒絶しているように見えたのか…
悔しかった。
ただ、私は困っていただけなのに。
私はクリスチャンマインドを理解したい。
でも、キリストの起こした奇跡を「本当にあったこと」とは思えないし、キリストが世界に一人の神だとは思えない。
私の実家の墓に眠る祖先もひとつの神々しい存在であり、守護神みたいなものであり、
日本の自然にまつわる八百万の神も、私には非常に尊い存在。
そう考えると、純粋なクリスチャンとして洗礼を受ける気持ちにはなれない。
クリスチャンにはなれないけれど、それでも聖書を理解したい。
でも、英語で聖書を学ぶのは難しくて、理解できないからイライラして余計に納得できないまま。
理解できない罪悪感からがっかりしてしまい、機嫌の悪い顔をしていた。
さらに私は、みんなの前で「わかりません。私はクリスチャンじゃないから」と答えてしまった。
これはキリスト教への否定的な態度と認知されたのだろう。
私はキリスト教を拒絶しているのではなく、自分の中に理解できないもやもやを処理できなくて困っているだけ。
でも、この気持ちは、だれにもわかってもらえない。
英語が苦手で、日本人コミュニティもほとんど存在しない私にとって、
今回の件はさらに私を孤独にした。
そんなふさぎこんで帰り支度をする私に声をかけてくれたのは、ボランティアのエマだった。
エマは今日、バイブルスタディに参加していなかった。
カフェの片付けをしていて参加できなかったのだ。
「ねえ、今日のバイブルスタディどうだった?」とエマは尋ねた。
私は照れ隠しに、エマに話した。「今日のバイブルスタディ全然理解できなかったんだ。しかもさー…」
英語が苦手なくせに、出来事を1から10まで話そうとする私に、エマは丁寧に付き合ってくれた。
そしてエマは、私にこう言った。
「もしよかったら、カフェとは別の時間に、一緒に聖書を読まない?」
これは、勧誘のひとつなのかな?と警戒した。
でも、私はエマのことをまだ全然知らない。
エマに、聖書のことを教えてもらおう。
そして、エマがどんな人なのか知りたい。
こうして私とエマの、マンツーマンのバイブルスタディが週1で始まった。
エマとのバイブルスタディについての話は、今後も続く。