大人になって出会った イギリスの児童文学『グリーンノウの川』
ケンブリッジ州にゆかりのある児童文学作家として、L・Mボストンがいる。
彼女は、『グリーンノウ』シリーズでロングセラーとなっている。
私は、シリーズの1つ『グリーンノウの川』を最近読み、すっかり夢中になってしまった。
もし子どものころにこの本を読んでも、今ほどは楽しめなかったと思う。
そのくらい、大人にとって面白い要素が詰まっている本だった。
この本の好きなところ。
1つめは、「大人が優等生ではないところ」。
子どものためのお話というと、「弱いものを助けるヒーロー」とか、「思いやりの見本を植え付けるよくできた主人公」が出てくる印象がある。
大人の登場人物は、「子どものよき理解者」か、「いじわるで否定ばかりする悪者」の二元論で描かれる。
でも、『グリーンノウの川』では、登場人物が、とくに大人が非常に人間らしかったので驚いた。
この話は、お屋敷を借りている2人のおばさんの相談シーンから始まる。
おばさんは提案する。
「せっかく素敵なお屋敷を夏の間借りるのだから、親戚の娘アイダを含め、難民の子たちを招待して楽しい時間を過ごしてもらいましょう」、と。
…まさに、この提案がケンブリッジらしいなと感じてしまう。
ケンブリッジの町には、昔スペインの難民の子どもを何十人も招待して住まわせていたお屋敷がある。
ケンブリッジは学術都市で、お年寄りも多く住む田舎町。
隣国が戦争で厳しい状況になると、難民を受け入れたり、子どもたちを救済したりという助け合いの精神が強まったのだろう。
自分の持っている豊かさを、難民や困っている人におすそ分けしよう、という姿勢が強い町、それが私の「ケンブリッジ」に対するイメージだ。
そして、舞台が川辺のお屋敷というのが、なんともケンブリッジらしい。
ケンブリッジはケム川に面したのどかな町。
休日はボートで川を漂ったり、川辺でピクニックする人たちの姿をよく見る。
今は観光客のための商業的なパンティング(ポールで舟をこぐ)が多いけれど、大学生が自分の寮のボートを出してきてこいだり、家にボートを持っている人も昔はいたという。
ピクニックのランチは必ずしもごちそうではなくて、ポテトチップスとアルコールだけなんて人もよく見かける。
それでも、美しい花やきれいな芝生に座り、美しい川を見ているだけで非常に豊かな気持ちになってくる。
話を『グリーンノウの川』に戻す。
グリーンノウのお屋敷にやってきた難民の子どもは、スペイン人のオスカーと、中国人のピン。そして、親戚の娘アイダ。
2人のおばさんはみんなを平等にかわいがるかと思いきや、そうとは限らない。
料理好きなシビラおばさんは、よく食べる子どもが好きなため、少食で小柄なピンは、シビラおばさんの視界になかなか入ってこない。
ある日、おなかを減らして帰ってきた子どもたちが、いつも以上にご飯を食べている。
読者は、「ああ、少食のピンがこんなに食べている!」とうれしく思い、「シビラおばさんはちゃんと見ているかな?」とワクワクする。
しかしシビラおばさんは、普段からよく食べるオスカーの方にに夢中で、ピンの食欲に気づかない。
こういうささやかな描写が、「普通の大人」を描いていて、なんともリアルだと思う。
そして、もう一人のおばさん、ビギン博士の鷹揚な態度も、とてもいい。
心配性のシビラおばさんに、ビギン博士はこう話す。
「子どもっていうのはね、やめさせることができないくらい遊ぶものなのよ。大丈夫、うまく遊ぶと思うわ。川があるでしょう。(中略)ほかにいったいなにを欲しがるとおもって?ほっておけばいいのよ。オグリュー(ビギン博士の書いている本)の邪魔さえしなければ、ね」。
子どものことをよくわかっているようなしゃべりだしだけれど、実はただ、自分の研究のことで頭がいっぱいなだけなのだ。
こんな、「どこにでもいる大人たち」を見るのが私はなんともうれしい。
昔はどこにでもいたんだろうけれど、日本では見かけなくなったように思う。
「マタハラ」だの、「目を離したら事故」、「兄弟は平等に育てろ」。
たくさんのSNSを見て、本を読んで情報を集めて、間違いのないように子育てをする。
責任問題と平等論であふれて、狭苦しい世の中になっちゃったんだなーと思う。
もっと呑気で人間らしい、でこぼこのある大人たちの中で育った方が、子どもたちだって楽しいだろうに。
この本の好きなところ2つめ。
それは、「子どもたちの行動」。
このお話を読むと、ああ、自分はもうすっかり大人になってしまったんだなと思う。
このお話の中で、オスカーとピン、アイダは、カヌーを漕いで行って、世捨て人と出会う。
もし、今の私の目の前に世捨て人が表れたら、私はどんな行動をとるだろう…
そして世捨て人が「俺を見たことはみんなに黙っていてくれ。おれは今の静かな生活が好きなんだ」と私に言ったとしたら。
私はきっと、それでも干渉してしまうだろう。「病気になったらつらいから、ごはんは食べよう。」と、炊き出しの場所に連れて行く。
「一人で森にいたら、寂しいこともあるでしょう。連絡先くらいは交換しましょう」とか。
そして、世捨て人に出会った3人の子どもたちに、私はそういうことを期待をしてしまった。
世捨て人と真の友情を結び、世捨て人を世間に戻してあげてほしい、と。
でも、期待は裏切られた。
「俺を見たことはみんなに黙っていてくれ。おれは今の静かな生活が好きなんだ」。
世捨て人のセリフを聞き、3人の子どもたちは、彼になにも言わなかった。
無言でボートのある場所にてくてくと歩く3人。
歩いている間、みんなで相談することなく、ひとりひとり考えたのだ。
なにが世捨て人にとって一番いいことなのか。
そして答えはどうしても見つからなかった。
でも、3人はそれぞれ、こっそりとあることをしていた。
自分の持っていたキャンディや釣り具やナイフをこっそり世捨て人の家に置いてきたのだ。
そしてそれをそれぞれ打ち明ける。
そして、「多少、気がらくになった」。
ハッピーエンドにならないのが現実で、「なにが正しいのか、答えははっきりしない」のが現実なんだなと痛感する。友情をはぐくむとか、心を開くとか、社会復帰させる、ということは、大人のエゴでもある。
それでも、世捨て人に美味しいご飯をまた食べてほしいと思ってしまうアイダの気持ちもよくわかる。
彼女は朝食のテーブルでおいしそうなベーコン、かき玉子、揚げパンを目の前にして、おばさんたちに世捨て人のことを話そうとしてしまう。
この素晴らしいごちそうを彼に食べさせてあげたいという思いがつのり、口を開きかけるアイダ。
でも、アイダの足をけって黙らせるオスカーの行為も、世捨て人の幸せを考えのことなのだ。
難民だったオスカーは、世間の怖さ・辛さを目の当たりにしている。
だからこそ、世捨て人をそっとしておきたい気持ちが強いんだろう。
子どもたちのひとつひとつの行為が、それぞれの立場で優しさを導き出そうとしていて、温かい。
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